ゴー宣DOJO

BLOGブログ
倉持麟太郎
2017.5.19 12:19

共謀罪から消えた「テロ対策」:日本の民主主義の退行現象

商品表示と本当の中身が違うこと、タイトルと中身が違うこと、看板と店内の実態が違うこと、これは往々にしてある。
往々にしてあるからいいわけではない。私も昔某日本の南国で、夜に食事にありつけず、どうしても開いていたのがそこしかなく入った店の名が「スナックみさこ」であったにもかかわらず、入店したらゴリラみたいな屈強な中年男性が店主だったときは、度肝を抜かれた。

食品偽装や不当表示がなぜ問題なのか。それは、我々が意思決定のプロセスの前提となる事実が正しくないため、我々の意思決定自体にキズがついてしまうということである。

「正しい情報があればこの決定はしなかった」
こういうことになる。

共謀罪法案が衆院の委員会で可決された。来週半ばには参院での審議が開始されそうな日程である。
本来、法案が可決されるというのは、論理的な議論は熟し、論点も網羅され、それぞれ意見や価値観の違う立場の者同士の議論が尽くされたからこそ、その熟議の過程での様々な価値の激しい凌ぎあいの結果、一人で決めるよりは、よりよい解に近づくであろうという想定のもと、やむなく決断のツールとして、多数決を行うのである。この前提が崩れれば、民主主義はまったく無機質な多数決主義に堕する。
今回の共謀罪法案の核心は「テロ対策」であった。首相はテロの脅威を強調、共謀罪がなければオリンピックが開催できないといっても過言ではないとまで発言し、共謀罪に競技場の設計やロゴマークでも作らせるのかと思ったほどだ。
安倍首相自身、2月3日の予算委員会でこの法案の目的として「目的は二つでありまして、二つの目的については、まさに条約を批准するためですね、もう一つは、テロに対する、穴があればそれを埋めておく必要があります」と答弁している。つまり、法律制定の目的として、1.条約批准と2.テロ対策を掲げている。もう一度いうが、1.条約批准と、2.テロ対策を明確に分けて法律制定の目的としている。
つまり、当初は、条約の批准からあえてテロ対策をくくりだしているのだから、最近では条約=テロ対策というようなイメージになっているが、そうではないのだ。
そして、このテロ対策、現行法での穴として政府が出してきたのが、いわゆる「3事例」である。1.サリン事件事例、2.9.11ハイジャックテロ事例、3.サイバーテロ事例である。
これは、想像を容易にするためにいえば安保法制のときの「ホルムズ海峡事例」や「(赤ちゃんを抱いたお母さんの絵でおなじみの)米艦防護事例」と同じである。つまり、その法案の必要性を支える事実、レゾンデートル(raison d’etre:生命線)である。

しかし、本日5月19日の衆議院法務委員会で、金田大臣は、いわゆる3事例+αが立法事実かと問われ、「立法事実は条約の批准」とだけ明言した。すなわち、条約批准には本来テロ対策は含意されていなかったのだから、事実上、テロ対策を立法事実から外したのだ
法案の目的の根幹が当初想定していたものと変化した、否、そもそもその看板は偽りの看板であったということだである。国民の代表である国会の場では、当初掲げられた「テロ対策」という看板に基づいて、この法案の是非を議論してきた。共謀罪の法案がテロ対策として実効性があるかどうか、当然そこに焦点をあてて、論戦が繰り広げられてきた。
しかし、いざ店内に入ってみたら、まったく看板と書いてあることが違い、再度入り口を見てみたら看板が変わっていた。これと同じことである。

そうであれば話は簡単である。議論してきた前提が消失したのであるから、その消失した砂上に積み上げた決定のプロセスも消失し、決定自体が正当性を失うということだ。つまり、具体的には、審議を一からやり直すか、この法案を一度ないものとするしかない。なぜなら、もうこの法案がよすがにした正当性の基盤は、すでになくなっているからだ。何よりも、これがなくなっていることを政権自らが認めらのである。

それにもかかわらず、法案は可決された。

採決は多数派がすればどうやっても可決することから「強行」ではないという声がある。しかし、真の熟議民主主義における採決は、様々な価値のバーゲニングと妥協のプロセスを経て、議論を尽くしたという”付加価値”が付与されている。この付加価値があればこそ、多数決主義はそのむき出しの数の論理に民主主義という価値を纏える。そうしなければ、本来多数決とは真っ向衝突するはずの立憲主義(=個人、少数派のためには多数決をも覆す価値)と民主主義が両立しないのである。
さらに付言すれば、ここには「手続き」を大切にするという価値観がある。人種、信仰、姓、年齢等が異なったとしても、手続きだけは中立でありうる。アメリカでプロセスが重視されるようになったのも、人種や民族、信仰が違う中で、手続きの中立性しか、物事を裁定する基礎足りえなかったからである。手続きは無色だ。日本も本来は、「柔道」「剣道」はたまた「野球道」と、「道」=「プロセス」を大切にしてきた国民であったはずだ。私は剣道をやっていたが、試合に入るまでに様々な作法があり、いざ試合中も、いくら面や小手をとっても、声が出ていないと一本にはならなかったりする。徹底的なプロセス重視だ。むしろ、この「道」を踏むことを美徳とする文化があった。しかし、今や、そのような価値観は消えてしまった。
プロセスにどのような嘘偽りが混ざっていても、プロセスにおける作法を無視しても、結論から逆算して、当初予定していた結論に持ち込むことのみが最高の価値とされる。

法案審議のプロセスに瑕疵があったのなら、やり直すか、出た結論を否認するのが筋である。私はテロ対策はいらないなどとは言ってない、すぐにそのような反論をする輩がいるか、そんなこと最低限の理性を備えた人間なら考えるわけなかろう。もってまわった言い方をすれば、「バカか」と言いたい。
嘘の看板をかけ、挙句にその法案の必要性とされてきたテロ対策という立法事実まで消失してしまった。

なぜここまで卑怯で不誠実なのだろうか。
なぜわが国の知性をフル稼働させてこの法案をよりよいものとする発想がないのか。
それがこの国を「取り戻す」方法なのか。

熟議をするのは、どんな人間でも、一人では、皆で知恵を持ち寄って決めたこととまったく同じレベルの決定ができる保証はないからである。何より人は間違える。だからこそ、我々人類は、皆で決めるプロセスを妥当性のあるものとして獲得してきた。今まさにこのプロセスは、音をたてて崩壊している。これは我々にも責任がある。看板が違うことを見抜く目をもたねばいけない、不当表示であることを察知する舌がなければいけない。

まだ参議院の議論がある。衆議院でのやりとりの積み上げを踏まえ、我々は、不当表示や看板の掛け替えを見抜かねばならない。そして、我々が大事にしてきた「道」を取り戻したい。まさに、そのための道はまだまだ半ばだ。

倉持麟太郎

慶応義塾⼤学法学部卒業、 中央⼤学法科⼤学院修了 2012年弁護⼠登録 (第⼆東京弁護⼠会)
日本弁護士連合会憲法問題対策本部幹事。東京MX「モーニングクロ ス」レギュラーコメンテーター、。2015年衆議院平和安全法制特別委員会公聴会で参考⼈として意⾒陳述、同年World forum for Democracy (欧州評議会主催)にてSpeakerとして参加。2017年度アメリカ国務省International Visitor Leadership Program(IVLP)招聘、朝日新聞言論サイトWEBRONZAレギュラー執筆等、幅広く活動中。

次回の開催予定

INFORMATIONお知らせ